ハーモニーを見た。感想をまとめる。
キャスティング
公開前から懸念していた声優のキャスティングはむしろ問題がなかった。特に気になっていたミァハ役の上田麗奈は想定以上にはまり役であったし、アレはアレで原作を読んだ時の印象とは違うものの、ミァハという問題への一つの解であるように思う。てさぐれの時の演技の幅の広さをもっと重視して想定すべきだった。トァン役の沢城みゆきは概ね想定通り、キアン役の洲崎綾も同様に想定通り最適解で会ったように思う。その他シュタウフェンベルクやケイタ、ヌァザも良いチョイスだったように思った。
背景
映像化する際、一番楽しみであったチェチェンの山奥の要塞の雰囲気も十分で結構良い映像になっているように思う。バグダッドにしろチェチェンにしろ何かしらのロケハンなり詳細なリサーチをやったように思えた。じゃなきゃ個室のないあのトイレは出てこない。
世界観を語る上で背景美術とそれに描かれる建物は非常に重要であるが、今回はクレジットにあったとおり建築(設計?)事務所が協力しているらしく、町並みは十分にユニークであり、作品の雰囲気を活かしていた。東京においてのモード学園ビルのごときビルの乱立にニューロンというか体組織のようなモチーフを使用しているのは印象的だった。
英語版
英語版を読んだこともあり、時折アルファベットで表記される用語の数々が英訳版準拠になっているのは良かった。ハヤカワ版に忠実であれば「ヴァイガメント(Vigerment?)」であったところを「Admedistration」としてあるのは、英訳版の読者である私には良かった。
追加等
あとは原作になかった追加点として捜査官権限での個人情報の非公開設定が追加されているのは順当かつ自然な追加要素であり、ヴァシロフの名刺のシーンであったりトァンの御冷家訪問のシーンに関しても説得力が増す良い追加である。
……褒めるのはここまでだ。
上記を殺して余りある問題点がこの映画には山積している。どのみちアホみたいに原作を読んだ「メンドクサイ・ツッコミ・オタク」にしかなれないので、気にせず面倒くさいツッコミをしていく。上記に反して概ねが否定形による批判になっているが知らん。
デバイス・プロップデザイン
SFってのは多かれ少なかれその世界観を描写するためのデバイスが頻出するたぐいの作品が多い。ハーモニーもそれに含まれるわけだが、まず気になったのはそこである。冒頭トァンがニジェールにおける監視業務をしている際には生府圏の外であるサハラであるから戦闘用のAPCやWarBirdを撃ち落とすRPGなんかがその役目を果たしている。APCは不整地走行用であるからアレでいいにしろ、半機半生のWarbirdのデザインや、トゥアレグから「おまけで」もらったRPGのデザインがよろしくない。「年代物のRPG」という記述には最低限従って欲しいし、装甲脅威の少なそうなサハラに展開する際の装備に未来的なジュネーブ条約機構軍のロケット砲が含まれているのはいささか納得出来ない。あのシーンではやはりRPG-7で描写して欲しかった。デザインであれば終盤のチェチェンでポーターとしてトァンのお供になる運搬山羊があんなにロボットでは人工筋肉が工業化された社会という虐殺器官へのハイパーリンクが機能しなくなる。サーボの音をさせながらBigDogの如くついてくるのはリアリティはあるかもしれないがそうじゃないだろ。
色彩表現の尊重の姿勢の欠如
問題はそれにとどまらない。ハーモニーは描写として色彩表現が繰り返し登場する作品である。色彩によって「思いやりで人を絞め殺す世界」の過剰なまでの思いやりを表現しているはずなのだがそれへの配慮が足りていない。確かに東京のランドスケープにおいてはオズの魔法使いのピンク色版とも言うべき雰囲気が確かに出ていたが、それだけではイカンのである。ジュネーブ条約機構軍の特徴が原作冒頭で述べられているが、装備一式、ライフルからAPCに至るまですべて薄いピンク色であるという描写への配慮がなく、未来的なだけの白いAPCとコンバットギア、黒い銃とお話にならない。トァンとキアンの食事シーンにおいてもライラックヒルズのレストランのマリーゴールド色のテーブルクロス(そしてそれに対比されるカプレーゼの赤白、そして血の赤)も同様である。
重要な部分の改変とオミット
メディアミックスの際にはある程度の原作改変が大なり小なり発生するものであるが、今回の場合はバイタルなパートの改変とオミットが発生していて、それが作品世界の描写を薄くしてしまっている。いろいろあるがSAが犯罪係数の如く表示されているだけでほとんど説明が無い感じなのはもにょったし、何よりミァハの名刺に関わるシンボリズムが大変に薄くなっている上、対ロシア自由戦線の少年兵への受け渡しの改変が発生しているせいでよりその重要性が薄れている。またバグダッドでのヌァザとの会話シーンにおいて、「意識が消失したのね」というセリフが原作においてはトァンのセリフとして描かれているが、此処に関しても専門家であるヌァザに説明される体となっており、あのシーンのクライマックス感が薄れてしまっているのが否めない。
SFの世界観が登場するガジェットによって強化されるという話を先述したが、改変によってその雰囲気が損なわれている場面は他にもある。冴木教授のオフィスの乱雑さの理由付けとしてのThingListというガジェットもオミットされているし、何よりメディケア端末の描写において公共の場に配給所の如く設置されている様子が止め絵で描写されていたが、これによって家庭用端末が存在していないかのような印象を受けてしまう。
ガジェットといえば最大の問題がインターポール、螺旋監察局共同のVRでの捜査会議である。VRの会議といえば個人的には新世紀エヴァンゲリオンのゼーレでの会議での番号とロゴのみのモノリスと、最近では楽園追放におけるディーヴァ幹部の三柱の神のモデルなどが印象的だが、伊藤計劃作品において鳴り物入りで制作されているハーモニーにおいて、手垢がついたような表現でモノリスの元に着席する荒いモデリングでレンダーされた参加者という表現をするのはどうなのだろう。広大な擬似会議室でオーグのレイヤーを通してトァンのPOVで表現するなど新しい挑戦が見たかったように思う。VRが一般化している状態でアレほど荒いポリゴンでわざわざ表現しているのは近未来描写として正しいのかしら。20余年経った2015年のアニメでもエヴァが到達した表現の枠を飛び出せないということに失望している。
他にも問題なのがWatchMeに関して「脳血液関門を突破できない」という言及が無いせいで脳内情報を捜査に活用できず、また、AugEye(映画の名称であるが)に音声が記録されていないという問題があるという制限の中、結果としてキアンのHeadPhoneの通話記録にたどり着いたトァンのみが捜査を進展させるという流れが適切に説明できなくなってしまう。イカンでしょ。
ハーモニクス社会という世界の演出
演出においても問題が幾つかあったように思う。ハーモニクスを目指し、それを善とする社会であるゆえに他者への感情的な言葉や口調を極力排したコミュニケーションが基本であるわけだが、そういう世界を描くという意図はあまり感じられなかった。当然難しいし、それを徹底した場合アニメ作品として成立しないかも知れないが、そういう雰囲気は少し感じたかったように思う。特に御冷レイコとの会話シーンに挿入できていれば、VR会議の切迫した口調やシュタウフェンベルクの怒りがその社会の「普通」ではありえないであるという印象付けが出来てよかったのではないか。
「百合表現」問題とエンディング
「ハーモニーは百合!!!!」などとたわごとを言っている向きも少なからずいるし、私もそんなようなことを言っていたわけであるが、プロジェクト版においてはその要素が過度に強調されている印象を受けた。原作を読んで主人公三人組の関係にそういう香りを感じるのは理解できなくもないが、翻案時に過度にそういう要素を強調しているのは流石に安直だという批判を免れないのでは無いだろうか。学生時代の回想においてトァンとミァハの恋人つなぎやらうなじに顔寄せるだのキスするだのとゆるゆりからがちゆりにステップアップしているのはどういうことなのだ。しかも映画ではキアンがのけもののような扱いであり、すこし気に入らない。上でチェチェンの「映像は」評価できると言った。しかし最大の問題がラストにあるのもまた事実である。百合強調路線の一環なのか、ラストのセリフの改変が個人的には一番許せない。「愛してる……」じゃあないんだよ愛してるじゃあ。そのおかげでトァンの「…だけどそれをあなたにはあげない」というセリフのコンテキストが薄れ、全く違う印象を受けてしまう結果になってしまっている。復讐であるから故にさんざん追ってきて、学生時代のイデオローグであったミァハを射殺するわけで、その動機付けが「私の知ってるミァハでいて」などという理由に改変されてしまうとトァンというキャラクターの動機付けが変わってしまう。アレではクレイジーヤンデレサイコレズである。
ehtmlというマークアップ言語による表現が伊藤計劃のハーモニーにおける文体的な挑戦でわけであるが、その表現をどのように映像化するかというのが制作陣が立ち向かうべき問題であり、公開前からそれが気になっていた。結局冒頭と終盤にあった白いモノリス的なものにタイプされるというある種安直な表現になっていた。これに関しては概ね想定出来たものであり、効果的であるかは大きく疑問であるが、一つの解ではあっただろう。しかし、原作1行目から継続して使用されるehtmlへの理由がなぜ必要だったのか、という部分を演出するのがエピローグであったはずである。4章のクライマックスをへて人類、そして世界がどうなったのかという答えを提示するのがハーモニーという作品の構成のエピローグである。それを安易に削除し、地図に「ハーモニー」の青いドットが広がるだけでは不足なのである。尺の関係上入らなかったという言い訳が透けて見え、そのせいでトァンがクレイジーサイコレズになっているのではないかという推測が立つわけだが、それで果たして伊藤計劃のハーモニーをアニメ化したと言えるのか。
総括すれば、「僕は百合もハーモニーも好きだが、見たかったものはこういうものではない。」ということになるだろう。