二次創作と私、もしくはオタク履歴書

ここ数年、コミケや他の即売会に出向いては二次創作小説を買い込み、その感想ばかりツイッターに垂れ流している気がする。なんでそもそも二次創作を読み出したのだろう。

元来母親が本の虫みたいな人なので物語を読む、という行為に馴染みがあったが、今の読書の嗜好の大部分を占める二次創作に関してはやはり15、16歳頃が始まりだったように思う。

思い出してみれば、そもそもアニメを見始めた(いわゆる深夜アニメに手を出した)きっかけそのものが二次創作だった。当時は渡蘭の反動でPCからアクセスできる日本の情報を貪るように取り込んでいた。その中で流れ着いたのがやる夫系作品のまとめブログだったのがすべての始まりだった気がする。

あのジャンルは「キャラクター」を元作品の文脈から分離させて、作者の語りたい物語に当てはめる、というブツが多く、AAの制約上同じキャラが作品間で全く違う役割を演じる状況があった。しかも語らせたい物語そのものが別の一次創作作品や史実だったりするので複数レイヤーにまたがった二次創作空間だったわけである。同時期にSSも読み始め、そういう下地が形成されたように思う。

そこで頻出していたハルヒ、らき☆すた、ローゼンあたりを見て以降今までアニメを見続けている。二次創作の延長として「原作にあたってみる」というのはいかにも自然であるけれど、因果のひっくり返った楽しみ方だと思う。

こういう原体験があると、同人誌なんていうまさに巨大な二次創作空間に出会ってしまったときにハマるのは当然としか言えない。しかもAAの制約なく「絵」によって物語が進むのである。

こうしてやる夫系作品とSSでの体験が二次創作の同人漫画本と同人小説にシフトしたのが日本に帰国して艦これにハマったあたり。特に小説界隈は史実とSFの狭間のシリアス系が結構多く、ぶっとい小説本を(値札を見ずに)買うようになった。今でもこの周辺はゲームプレイしなくなった今でも買っている作家さんが多い。

二次創作の百合ジャンルにハマったのがいつか思い出せないけれど、少なくともオランダ時代から商業アニメ内での概念の認識はあったみたいで、二次創作を読み始めたのは艦これだったのだと思う。ただ本格的に沈んだのはやっぱりデレマスに出会ってから。というかアニメ見て落ちなかったら詐欺だよあれは。ただやっぱりアニメだけでは不十分で、柊要神の『駆け足、秒速8キロメートル』にあの夏出会っていなかったら多分ここまでハマっていない。

二次創作がなぜ好きなのか。この問について考え続けているが、満足の行く答えにはたどり着いていない。不十分でも今のところ持っている答えを記録しておこうと思う。

一つはそれが私が楽しいと感じる「史料から可能性を紡ぐ」という行いだから。もう一つは「その紡がれた可能性には作者の情熱が詰まっている」から、最後に「その史料が一定であるにも関わらず、作者によって違う結果が出力されることでその作家性が読み取りやすいから」の3つがあると思う。

歴史を研究(したいと望む)者の一人なので、当然それが楽しいわけだけれど、その基礎である「史料を観測点にして不明確な「史実」に形を与えていく」行いは二次創作と同じだと考えている。当然歴史学では「史料から導き出せる結論のみが史実」になるわけだけど、その史料の解釈は研究者で意見が分かれるし、その論争と解釈のグラデーションのどこに自説を置くかが醍醐味なのである。二次創作においては史実はキャラクターという存在で、史料は公式から提示される「原作」のすべてがそれに相当する。極論二次創作は「原作を踏まえていかにキャラクターという現象を解釈するのか」という問に帰結すると思う。不確実なキャラクターに輪郭を与え、歴史を想定し、人にする行いが二次創作である、と私は思う。原作という史料でそれが完結するか、と言われたらそれは否で、それらをいかに解釈して記述するかも同様かそれ以上に必要なプロセスなのである。

さて、その解釈の出力には歴史学と大きく違う点があって「作者の設定した世界(Controlledな環境)でキャラクターを提示する」のが歴史学に許されず、二次創作に許された自由、というのがある。そういう意味で人文科学的な(演繹的)分析でありながら、その結果を提示するのに自然科学的な(帰納的)形式が使用できるというのが面白い点だと思う。自由で言えばもう一つあって「史実を選択的に使用することも構わないし完璧に無視しても構わない」自由もまた提示される「キャラクター」に幅を与える。そしてここで提示されるそれぞれの解釈は作者の「なぜこのキャラクター(設定、シチュエーション)が好きなのか」という問に対する答えでできている。この情熱の集合が自分にマッチしたとき、想定外の可能性を力を持って提示してきたとき、自分にとって楽しい作品に出会える。

以上2つは実際のところ「二次創作でなくても成立する、創作を楽しむという行為に対する一般論」でしかない。データベース的消費云々で言われるような属性の取捨選択と作品の生成のプロセスと似たようなもの、と言われれば確かにそのとおりではある。

二次創作が真に楽しいのは(程度の差こそあれ)そこに原作という一つの核があり、そのコアの周りに様々な解釈のグラデーションが生まれることで読み手に「各二次創作作品間で比較検討、取捨選択」することを可能にし、キャラクターという現象に対する自説の形成が行えることにあると思う。また二次創作は同じキャラでも作品感で微妙に異なり、キャラクターのグラデーションを生み出す。そこに多世界解釈的な面白さを見出しているのもあると思う。

同時に核が同じことで作者の好みというか作家性のようなものがより比較しやすく、作品があればあるほどグラデーションに色が加わっていくことに楽しさを見出している。

とまあそういうわけでせっせとデレマス小説同人を買って山のように積み上げるオタクが誕生してしまったのでした。

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