私の好きなものの両輪は突き詰めると「百合二次創作」と「歴史」になるんだと思うけれどまとまって百合の方は書いたけれどなぜ好きなのか書いたことはなかった気がするのでまとめておきたい。
そもそも歴史に足を踏み入れる前に私はミリオタで、装備から戦史に入った人間である。小5くらいだったか。陸自基地の近くに住んでいたのも大きかった気がする。初めて歴史をリサーチしようとした(した、ではない)のは小6自由研究での特別攻撃ネタの拙いレポート。今見れば稚拙極まりないしほぼWikiのコピーであるので読めたものではないが、あとへの方向性がすでにこのへんから発生している気がする。
ただ歴史方面に興味が出だしたのが中学時代、入口はまとめブログ、それもいわゆるネトウヨ系の思想に染まった数々。そもそもの興味であった太平洋戦争方面を調べるとそういうところに行き着くような全盛期だったわけで。時は中2、オランダに移りインター校という「アウェー」な環境で嫌でも自分の「日本人性」と向き合わねばならない生活。そういうブログ記事にハマっていった。中2病とネトウヨ思想を混ぜ合わせたネトウヨの完成である。陰謀論めいた反中反韓思想を信じ、歴史により興味が出た。
一方でインター校という環境では他の東アジア人(特に韓国人の友人には恵まれた)との結束がある程度強く生まれることもあり(ヨーロッパ人よりはるかに話しやすく理解しやすいという思いがあった)、完全な中韓ヘイト思想を持つことは難しかったことが幸いした。結果極端な方向には行かなかったように思う。
克明に覚えている転換点はある日の夜。食卓で「パチンコは北朝鮮の資金源である」旨の発言をして(今考えれば痛すぎるが)親に疑問を呈されたこと。自説に疑問を覚えて徐々にそういった記述を批判的な目で見るようになった。
覚えているといえばもう一つ。インター校の人文系(科目的には歴史、経済、地理)教室にあった1940年代の東アジアの地図に貼られていた付箋。Sea of Japanと書かれた上に貼られたそれにEast Seaと書かれ、韓国人学生がこれが正しい、というようなことを言っていたのを見たこと。東アジアの右翼系思想が遠く離れたオランダでぶつかったのを間近に見た体験は未だに強く焼き付いているし、今思えば「なんでこんなことが起きるんだろう」という問いの始まりだったのかもしれない。
11年生でIB DP課程が始まる際に迷わず歴史を科目選択の中に選んだのはもはや必然だった。それまでのMYPでのクラスはルネッサンス史、オランダ黄金時代などの個人的には興味が薄い分野だったので科目的には特に好きなものではなかった。しかしDP課程ではヨーロッパ・中東地域の現代史、それも2つの世界大戦と冷戦、独裁政治体制の研究、ドイツとイタリアの統一史にくわえてアラブ・イスラエル紛争がシラバスにトピックとして列挙されていて俄然興味を惹かれ履修したわけである。
歴史の本当の面白さはこの時に出会い、歴史研究手法の基礎、史料の取り扱い方、事実は解釈によって作られるという思想、そしてなにより歴史の楽しさを2年かけて味わった。このときの恩師である2人には感謝してもしきれない。ヒトラーやスターリンはじめとした独裁体制の権力掌握プロセスの流れや世界大戦の開戦経緯とその原因に関する学説などテーマごとに説明され繋がっていくプロセスが本当に楽しくて(最後の成績はアレだったにせよ)あれこそ自分の「歴史をする」ということの原体験であった。
この中で二次大戦を扱ったときに東京大空襲がクラスメイトに全く認知されていなかったという体験も結構印象に残っている。個人的興味から二次大戦全般の知識は人並み以上にあることを理解していたが、Historyを選択したクラスメイトは原爆は知っていても、それ以上の死者と損害を与えた空襲は知らなかったのである。私が日本人として教えられた「空襲・焼け野原・飢餓」の3点セットのWWII観は存在しなかったというのが本当に衝撃だった。当然といえば当然だが「歴史の教えられ方で捉え方はどのようにも変えられる」というのをネトウヨ言説に触れて離れていったプロセスと合わせて肌で感じた出来事の一つかもしれない。
百合と二次創作に関するやつで言及したけれど「やる夫系」にハマった時期がこの時期で、そのなかにあったのが「やる夫が雪中の奇跡を起こすようです」というタイトルの作品。
http://yaruo.wikia.com/wiki/%E3%82%84%E3%82%8B%E5%A4%AB%E3%81%8C%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%82%92%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%99%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A7%E3%81%99
◆V2ypPq9SqY氏、後にTwitterでだよもん氏(@V2ypPq9SqY)として発見する彼のこの作品はフィンランド共和国が大国ソビエト連邦と戦争になり、占領されず生き延びるのかが翠星石演じるマンネルハイム将軍にスポットを当てた戦略レベルと、やる夫演じるスロ・コルッカを通して描かれる戦場レベルがうまく噛み合わさって短いながらもめちゃくちゃに面白く、「なぜこんな小さい国がソ連に負けなかったんだ?」という疑問が以降ずっと頭の片隅にあった。そのつながりで伝説のスナイパーSimo Häyhä(フィンランド語をやっている今なら通説のシモヘイヘではなくシモ・ハユハに近いこともわかる)のことも知ってますます興味が出たのがこの頃。
個人的興味と自由課題の方向性が一致してしまったときに発生するのが「趣味に走ったボンクラレポート」である。IB History HLでは担任評価課題としてInternal Assessmentがあり、Hisotry IAに関しては中央での評価課題である最終エッセイと文献批評のPaper 1と違い、履修科目のOption(Historyの場合地域と時代、私のいたところはヨーロッパ・中東地域の現代史)にあっていればトピックは自分で選んでよい課題だった。迷わず「冬戦争におけるフィンランドに対する外国の支援について」という趣味も趣味なトピックを選択した。幸運なことに歴史デパートメントに当時フィンランド外相であったヴァイノ・タンネルの回顧録が何故かあり、だよもん氏の作品を読んだ後文献リストから選んで個人的に買った梅原弘の『雪中の奇跡』とインターネット文献を基礎に書いたは良いもののクオリティは(読み返せば死にたくなるほど)大変に悪いものができてしまった。自分で文献を探し、読み、出力するという作業の方法が単純に理解できていない状態だった。
IBにはExtended Essayと呼ばれる卒業論文的な課題が卒業要件に含まれているため、Historyで書くことを決意し、「東京裁判とニュルンベルク裁判についての比較」というこれまた個人的興味丸出しでトピックを設定した。書いたは良いが上記の理由で同様にどこも褒めようがないクオリティのブツを生産してしまい、最終成績で笑うしかなかった。ここで「失敗した」ことが私の大学生活を形作る。
このあたりで自覚したのは、自分の興味が「今の社会に連なる歴史」にあり「今の社会から見る・が見る歴史」がどうなっているかあることだった。それはネトウヨ的な言説に触れ、おかしいと気づいたプロセスにあり、歴史の教室にあったEast Seaの付箋にあり、東京大空襲を知らないクラスメイトたちに出会ったときにあった。「今の社会がなぜこの状態にあるのか」を歴史という過去からの眼差しによって解き明かすということがしたいことに気がついた。
ICUでは歴史学メジャーこそ選択しなかった。必修が単純に自分の興味のある現代史から離れていたのもあったし、言語科目の実質免除によってカリキュラム上最大限の選択科目の単位枠もあったため、現代史に関しては開講されている講義を選んでを履修した。そのかわりにメインは国際関係論を選び、インター時代に触れられなかった「今がどうなっているのか」について注力して学んだ。IB Historyのその先に何があるのかを知らねばいけないというのもあったし、ネトウヨ時代の興味はこちらが近いというのもあったし、単純に教授陣が話の通じそうな面白い方々が多かったからというのもある。
あの大学の面白いところは英語で日本史の多くを、世界史にカウントされる欧州・米州・アジア史の多くを日本語でやることがある。欧州現代史はあまり開講がなかったがオーストリアを核にした20世紀世界史やポーランドを核にした東欧史(落としたが)、日本史の概論や文献購読で明治以降を含むものだけを履修した。研究手法の講義のトピックもICUそのものを核とした全く違うアングルから見る昭和史、特に学生運動史を取り扱ったため、興味が高じて取得単位数にカウントされないのにもかかわらず最終学期にICU史を履修し、在学中卒論に並んで気合を入れて取り組んだ。
「失敗した」からリベンジマッチをしたい、という思いが3年ごろにあり、日本史文献購読にあったダワー『敗北を抱きしめて』精読で盛大に失敗したExtended Essayのリベンジを果たし、卒論についても国際関係論にもかかわらずフィンランド史をトピックとして選んだ。
9月入学6月卒業のスケジュールではあったが、勘違いして卒業研究に関する相談を3月卒業と同じスケジュールで始めてしまったのが幸運で、単位にこそならないが3ヶ月早く卒業研究を始めることになった。ここで稼いだヘッドスタートを結局使い切ってしまうのではあるが、就活スケジュールも結局半年ズレる関係で卒論に注力して1年3ヶ月かけて書き上げた。
ここで面白かったのは全くの偶然からEU研究がご専門の卒論指導アドバイザーをお願いした植田先生の博論指導教官がフィンランド史研究のパイオニアである百瀬博先生であったこと。恩師の恩師がまさしく私のトピックの専門家だったわけである。さらなる偶然はICUの提携校である津田塾大(植田先生の出身校でもある)に百瀬先生が在籍されていたことがあった関係で日本語の文献はほとんど揃っており、ICU自体にも卒論研究での同トピックの先駆者がいた関係で、存在するフィンランド史の英語文献の中でメジャーなものがほぼ全て揃っていた。マンネルハイムやタンネルなどの英訳回顧録などの一次資料こそ収蔵はなかったもののフィンランド史研究をするのに理想的な環境が揃っていた。入学前には知りもしなかったが、早稲田や東大などの巨大図書館にも引けを取らないレベルの資料数が近くにあったという偶然を今考えると、私がフィンランド研究をするのは運命だったのかもしれない。
インター時代のリベンジマッチを果たしたものの、そもそも英語と日本語しかできない以上文献の数には限りがあった上、日本での専門家が極端に少ない分野でもあり不足を感じてしまった。加えて先行して「就活戦線」を戦っていた3月卒の友人たちを見ながら「これほどまでに興味と時間と労力を注いだ卒業研究が評価されずに社会人になる」という事実にどうしても嫌悪感があり、院進を決意した。家族には感謝してもしきれないが良い投資だったという結果を残したいなと思う。
自分語りでこんなに書くのはなんだかナルシシストみたいで嫌ではあるのだがもう百合で書いてしまっているし、このブログの機能の一つが特定のトピックが「なぜ好きなのか」を言語化するプロジェクトなので仕方がないという気もする。私がこんなクソ寒いところにいるのはだよもん氏のあの作品がいけないのです。感謝してもしきれない。
(続く)