翻訳するということ、または概念的な敏感さ

翻訳はもうそろそろ5年くらいやっているけど思ったことがいくつもあるので記録しておこうと思う。バイリンガルとして話すということともちょっと違うんだな。

ついこの間、ある機会に「あなたにとって翻訳とはどんなものか」と聞かれて出した答えが自分でも納得できるもので、ある程度共感してもらえたのが嬉しかったのが実際の動機。

「翻訳とはSLの言葉から余分なものを削ぎ落として、概念レベルに蒸留した後、TLで一番近い味の概念に変換して肉付けする作業である」と自分は言ったのだけれど、質問者に面白いといってもらえた。同業者だったので自分でも使うわ、と言われた。

大概の単語は大体フィットする訳語が辞書なりコーパス引けば出てくるんだけれど、日本語と英語とかいうもう共通点を見つけるほうが大変なくらい遠い言語では同じ単語に5つも6つも当てはまりそうな言葉が発生するわけです。英語は本当に雑な言語なので似た意味でもフランス系とゲルマン系とラテン語系がそれぞれ違うとかいう状況すらあるわけです。英語ではembarrassとshameになる概念は日本語の「恥」で包括できるか、と言われたらそれも違うわけです。日本語に至っては「硬い、固い、堅い」を英語でいかに伝えるか、という禅問答みたいなことをせねばなりません。

定訳とされている言葉でも最適解でないこともある。それは言葉の使用例が示す「概念の範囲」が異なって、それぞれ想起される感情やニュアンスが違ってくるわけです。その中から最適解を出すにはやっぱり比較可能な概念レベルにする作業がどうしても必要だろうと私は思う訳です。

だから書いてる人もよくわかってないような、なんかそれっぽい言葉を打ち込んでいるような文章はどこを残して削ぎ落とすのか把握しきれないので翻訳するのに多大な苦労をせねばならなかったりします。多分世界で一番訳しにくいのは不動産のマンションポエムとかああいうマーケティング用の文章。

この「削ぎ落として、蒸留」っていう発想、多分もやしもんのせいなんですよね。日本酒作るときに精米歩合どのくらいまで削ぎ落とすのか、んで蒸留をする、みたいな発想は多分あの漫画で初めて触れたんじゃないかな。

こうやって処理していくと読む文章すべての概念的な範囲とか、使われ方に敏感になっていきます。特に言語は生き物なので、受け止められ方が変わっていくのに合わせてアップデートしていかないといけないし、言葉の語源と歴史的用例も知らないといけない事態が日常になってしまう。つまりは社会構築主義的な視点から言葉に常に触れて、常に考えて、感度を上げていってしまう。

この概念の範囲を考え続けるということを学んだのは多分IB HistoryのPaper 1対策で、文献批評を行う際に必須なんですね。「この史料の作成者はなぜこの言葉・フレーム・絵をあえて使っているのか」を答えた後に、即「ではこの史料で見えないものはなにか」を答えないといけない試験なので。今思えばポストモダンが歴史学にもたらした1つの転換である「language shift」を前提にした考え方で、言葉に敏感な視点を教え込まれていたわけであります。

感度が上がると何をしだすか、というと文字通りに文を読むというプロセスに並列して「その分が何を言っていないのか」を考え出してしまってひたすらに内容そのものから遠ざかっていくのです。ついには物語そのものを構造で考え出してしまってDB消費論を核に置いた同人誌論なんかやりだしてしまった。

翻訳は私にとって百合を語ることや歴史をやることとちょっと違う位置にあって、「できること」なんだけれど「アクティブに楽しい」ことではないんですよね。もちろん楽しいし、案件さえ来ればいくらでもできる自信があるけれど「楽しさの質」が違う。それは多分共同幻想がどう作られているか、に興味があるから、ということになる。

百合は「観測されたあったかもしれないしなかったかもしれない関係性、でも観測者(たち)にとっては限りなく事実」という構造になっていて、その観測者が何をトリガーに幻想を発生させるのかが面白いので、キャラクターという現象の関係性に着目して考えていきたいと思っているので、共同幻想的な現象のトリガーが気になるのです。またそこに原作ー二次創作ー読み手のSocialな幻想構築のプロセスがあるから二次創作のほうが圧倒的に面白くて「Canonで言及されていないものをいったいどこから読み取って解釈し、幻想としてひろまっていくのか」が本当に面白いと思うことなのです。

歴史でも歴史事実そのものにはあんまり興味がなくて、それをどのように解釈して、その解釈がなぜそのような有り様を示すのか、という方に興味がある。language shiftが常識になった後に訓練された歴史学徒なので、「全ては解釈である」というある意味ややこしさをまして、分野そのものを瞑想させている感のある発想が根底にあります。つまり「歴史的事実」と呼ばれるものも解釈の結果発生していて、ある種の共同幻想として定説が出来上がっているわけです。言い換えるならば「解釈の言語化の結果が無数にある中で、その総体としての定説が幻想としてある」構造なわけで、これは二次創作の構造、興味と一致します。

無論この2つの分野での同じアプローチは「作品・歴史そのものに真剣に向き合っていない」という批判を免れないものではあるのですが、こういう興味が今の所ずっと尽きずにここまで来ている(どころかそれがやりたいがためにヘルシンキにまで来てしまった)のでもうしょうがない。

翻訳から脱線した…。翻訳にはこの共同幻想の分解という作業よりは、レゴブロックでできた共同幻想を、ダイヤブロックでほぼ同じ形に作る作業なので分解は主眼に置かないんですよね。もちろん作るときに分解して一つ一つのピースをよく観察して検討する作業は上と同じなんですけども。そういう意味で多分面白さが違ってくるんだろうなと思う。なので(途中まで一緒だから)「できること」だけれども(主眼が分解ではなくて構築なので)「アクティブには楽しくない」と言うことになる。

修論やってたら自分と向き合ってこういうことに興味があるんだな、というのが収斂していく様子を実感したのです。言語に着目したフェチ(こう言うと虐殺器官みたいだけれど)、衝動みたいなものなので、この面白さはもうこれ以上ロジカルに言語化できないけれど、こういうことを考えながら生きているのだ、という記録。

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