ヴィーガン・信仰・犠牲者の話

TL;DR

生き物として動物性を捨てられない人間の「原罪」をいかに処理するか、が宗教が果たしてきた役割で、それが弱いからヴィーガニズム啓蒙は刺さらないのでは。

日本でもヴィーガニズムが見える形でアクティビズムをやっているらしい。見える形だから早速Twitterではおもちゃ議論になっているようだ。フィンランドにいる人間としては日本よりも遥かに「ヴィーガン・ベジタリアン」を公言する人の数が多く、そうしたライフスタイルを送る人々への配慮がそれなりに行き届いている社会ではある。言ってしまえばヴィーガンが普通になった世界で生きていると言っても過言ではないわけである。一方で自分には「ヴィーガン思想」というもの、またそれの啓蒙をしようとする動きについてかなり懐疑的な見方を持っていて、自分自身も今後ベジタリアン・ヴィーガンというライフスタイルを自分で行うつもりはあんまりない。
ただしその思想とそれらを行っている人々は本当に面白い。自分の最近の問題意識の一環としてもう少し詳しく知るべきだなと思っている。この問題意識というのは本職(にしたいと思っている)の研究、趣味の研究両方に関わっていて、関連性を自分の中では納得しているのだが、まとまって言語化していない気がした。その問題意識の一部をなす問を言語化するならば「宗教を殺してしまった世界で一体宗教が果たしていた機能はどのように代替されているのか」となる。なんだかタイムリーな話題が降ってきたのでこれについてなんか書いてみようと思った次第である。

論の前提

さてこの問、まずはじめに「宗教は死んでいるのか」についての議論がある。ここで「宗教を殺す」という行為は無宗教という宗教スタンスや神の否定みたいな話ではあんまりなくて、西欧から発展した「宗教を殺すことによって発展した思想体系のプロセス」の話である。ヨーロッパ発の近代化というプロセスはキリスト教が権威を持ち、思想の根幹をなしていた世界において、神の権威に疑問を投げかけることによって科学を発展させてきたプロセスで、結果的に政教分離、科学、啓蒙主義、人権などと言った近代の根幹をなす要素の数々につながるものである。論文書いてるわけではないので文献探して読んで頭の中に入っているわけではないが、「近代論」の中でこういった主張は多分あるはず。短く言ってしまえば今の世界(world as we know it)の出発点から今に至るまで、近代化というプロセスは宗教の権威を殺し、懐疑の目を向けることによって発展してきたプロセスだ、という理解になる。これが達成された今の世界はすなわち「宗教が死んでいて」、懐疑を核として世界を作っている要素のすべてに問を投げかけ続ける科学が世界を支配している世界で、言ってしまえば「大きな物語の崩壊」とポストモダニズムが名付けた現象そのものである。これの妥当性は議論があるだろうけれど自分の考えとしてはこんな感じになっている。ポモポモしたくはないのだけれどそうなってしまうのはなぜだ。
宗教が死んでしまった世界はどうなるのか、というと社会において共通のルールがなくなり、個々人がその判断をしなければならない、という世界である。理想にも見えるが実際は宗教体系にアウトソースできていたコストを自分が払うことになる、ということである。徹底的に考えねばならないし、しかも懐疑が世界を作っているので楽に信じられるものはない。おまけに他者と共通しない上に根本的に矛盾を孕んだ問なのでまさに白黒つけようがない。足元もグラグラ、すがれそうなロープもいつ切れるか、そもそもつながっているのかすらわからない、そういう世界だ。

さて、宗教を「克服」してしまった世界で宗教が行っていたことはどうやって処理されているのかというのを考えるとき、「なぜ宗教があったのか」という問とその果たしていた機能を考えるわけであるが、これは「人間に普遍である動物性をいかにして制限し、克服するのか」という問題への対処法とルールのセットである、という(現状とりあえずの)結論に達した。人間は当然ながら動物的欲求を持ち欲望によって動く存在で、かつそれを認識しそれについて考える理性を持ち、欲望の制限をすることができるという矛盾をはらむ存在である。仮に動物としての生き方をするのならば弱肉強食で、欲望に従って生存競争をしていくことになる。一方で理性を突き詰めていくと人間はどうやっても他の存在を殺し、害をなすことでしか生きられない、という結論に達する。極論「生きるためには他者を食わねばならない」のである。その矛盾の「折り合いをつける」ための機能というのは、宗教が果たしているとても重要な機能ではあるまいか。

2年ほど前にデュルケームを引用してアイドルアニメを宗教として考えるとかいう頭のネジが外れたようなレポートを書くくらいなので、宗教そのものやその中での考え方(神学的なもの)よりはそのシステムが果たしている機能に興味がある機能主義者で、これは歴史へのスタンスとほぼ同じなので一環はしている、はず。おそらく世界の宗教の中で「食べるもの」への戒律や儀式がない宗教は多分ないと思われるし、むしろそこから宗教が生まれているのかもしれない、と考えるのは飛躍だろうか。通説的には多分死のほうが重要なんだろうけれど。少なくとも農耕社会以後の世界は食べ物の重要性はあるだろうし、社会生活における欲望の制限は多分宗教の重要な機能のはずである。

宗教としてのヴィーガニズム

上で今の世界は「宗教が担っていた判断コストを自分で払わねばならない世界」と言った。ポストモダン言うところの「小さな物語」であるが、宗教的機能を果たす「宗教のようなもの」は現代に数多くあるように思う。大きなところを言えば日本に無数に存在する新宗教の数々、小さなところを言えば自己啓発系のセミナーなども含まれるだろう。もう少し視点を広げると信仰の行いの対象を創作に見出す何かが終わっているオタクみたいなのもいる。無論政治主張の中でもこういうふうに「宗教的なもの」としての役割を果たしているものがあるだろう。特にアイデンティティポリティクスにおいてはそういう「カルト化」している側面を否定しきれないクラスターがあると思っている。もっと言ってしまえば冷戦以後のナショナリズムなんてのはまさにこういう「宗教的なもの」としての機能を求められて支持をあつめているんではないだろうか。

こういう「宗教なもの」たちの中にヴィーガニズムが含まれる、というのが自分の考えだ。無論ヴィーガニズムというスタイルを取っている人全体が宗教的な機能を求めてそれを行っている、とまでは言わない。むしろ多様な理由からそれを行っているというのが現状だと思う。一方で今回「肉食やめろデモ」的な運動を行っている人々の行動動機には、上で言ったような宗教の機能を果たしているから、というのがあるのではないかと思う。

さてヴィーガニズムにおいて上で言ったような機能がどう現れているのかを理解するためには、その文脈を考慮に入れる必要がある。宗教の死んだ世界では自分ですべてを考え、判断のコストを払わねばならない。その中でも今までアウトソースできていた「存在することで害をなす」という罪の折り合いをつけるという大きなコストを払う必要がある。また現代では特に他者への「被害・犠牲」への敏感さというのが高まっているという要素もある。環境主義、アイデンティティ・ポリティクスなどの根幹には「自分が存在することによって発生する被害」と「発生した犠牲者」について考え、その償いについて考えることを人々に要求しているように思う。この思想自体は未来のために必要なことである、ということを否定するつもりはない。むしろ重要であると思う。

しかし科学主義が問いかけ始めた問は、人間に動物としての側面を完全に克服し理性的存在としてあるように要求し始めたのではないか。もはや人間は理性的存在として他者ばかりか地球環境というバカでかいスケールの問題と折り合いをつけるコストを支払わねばならなくなった。一方で「他者への加害なしに人間は存在できない」という野性と理性からくる根本的な矛盾を解決するための伝統宗教は死んでしまったため、これと向き合うことを同時に求められる。

こういった高い判断コストを支払うための方法としてヴィーガニズムは機能を果たす。動物性食品、製品などの使用をやめ、動物実験への反対や食肉産業へのnoを主張し、彼らのいう「動物の搾取」をやめることで、自分の生活から発生する加害を最小限に抑えるという規範はこの問に答えてくれるルールになる。

インド宗教とヴィーガニズム

この思想に酷似した伝統宗教にインドのジャイナ教という宗教がある。この宗教のアヒンサー(不殺生)という言葉は仏教思想やヒンディー教にもあるものだが、ジャイナ教はその中でも「他者・生物を加害しない」という原則をもっとも厳格に守っている宗教である。菜食でも根菜は食べず、生存に必要な最小限を摂取し、動物性製品は自然死した動物の革を除いてすべて排除し、出家信者においては虫どころか微生物への加害に関しても極力避けるスタイルを取る。在家信者においても極力これらを守り、また仕事において不殺生を実現できる銀行家や商人などが推奨される。

面白いのは「人間が存在することによって発生する微生物などへの加害」は、それに関する正しい知識を持ち、思いやりを持って不殺生を貫くことで許容され、また下等な命を犠牲にすることは発達した生物を犠牲にするよりも少量ですぐ消えてしまう程度のカルマを生むので、不殺生のスタイルを貫いている前提において許容される、という点である。自分の専門でなく詳しくないためにWikipediaの受け売りであるが、類似性はわかってもらえるのではないか。
日本で身近な仏教においてもこの「必要以上に殺すべからず」という思想は存在している。ここまで厳格に運用されてはいないし、在家信者についてはほぼ何でもありな時代がかなり長いこと続いているはずである。ヴィーガンは言ってみればインド宗教の思想に西洋世界が2000年近くかかって到達した、とも言えるのではないか。車輪の再発明感がある。

「過激派」と線を引く事

この長ったらしい文の出発点はこのツイートだった。

ある種当然な主張ではある。過激派の奴らと一緒にしないでくれ、という発信は大事だ。2001年以後のアメリカ、2016年以後のEUでイスラム教徒たちが発信し続けてきたメッセージでもある。穏健に自分の信条としてヴィーガンである人が大半であること、アニマルライツ運動が基本的に穏便であるのはフィンランドのEOPなんかを見ていれば理解できる。フェミニズムにおいても似たような「線引き」の言説を見た覚えがある。

「過激派」や「原理主義者」「カルト」などのラベルを貼り一般の信者とは違うという線引きは、手段を選ばず「啓蒙」するために活動する過激派が行動を起こし、可視化されたあと数え切れないほど発信されてきたメッセージである。一方で2001年や2016年に見たように、一部の行動が全体のイメージになり排除につながっていったというのも同時に起きてきた。ましてTwitterにおいてこのツイートのように「理想」なぞほぼ間違いなく起きない。

なぜか。オンライン空間はリアルの対立が増幅され、うねり始めて現実の認識を変える力を持つ場所だからである。しかもリアルではかかるかもしれないブレーキがかからないことが多い。友人が言った「ミーム蠱毒」というフレーズや、別の友人に教えてもらった「個人の考えが社会化されて力を持つ場所」というのは言い得て妙だと思う。こういった対立はある種の戦争にも似ていて、戦争をする上で重要なのは敵の最も脆弱な箇所を突いて攻撃の効果を上げることだ。極端な主張をする過激派の行いを非難するのが当然手っ取り早い。10年近くTwitterを見てきてネトウヨ・サヨみたいな対立においても、表現規制の問題においてもこのエスカレーションと「脆弱箇所の利用」は発生しているように思う。またこの数年でオンライン空間では無制限戦で、感情に任せてどんなことをしても良い、という風潮が日本語空間に限らず存在している。双方がエスカレートする軍拡競争みたいな中でBC兵器を使い始めたWWIのような感じだ。

ヴィーガニズム過激派が日本で行動を起こすということ

日本におけるこの問は仏教思想の痕跡が残っている日本においてさんざん問われ続け、「いただきます」みたいな出自の怪しくも機能的な祈りで一定の折り合いをつけてきたわけである。当然その深度や大乗仏教にそんなものがあったか、みたいな話はあるが。そういうところに車輪の再生産をあたかも真理であるかのように持ってきたらどうなるか。

西洋思想にどうしても含まれている「啓蒙」という要素を隠しもせず、ヒエラルキー前提で自己の優越を疑わないスタンスは、どこでやっても反感を生んで当然ではあるまいか。彼らの信ずるところを実現するには突き詰めればジャイナ教徒的なストイックさがいるわけで、それなしで根本的な矛盾をどう処理するかというロジックも曖昧で、むしろ不殺生思想の根幹を自分の「啓蒙」で踏みにじっているのである。そうした自己矛盾を孕んだままに「愚民を啓蒙してやるぞ」などというスタンスを取ってしまえば響かないのもいっそ当然ではなかろうか、と思うわけである。

ヴィーガニズムを信ずる人々そのものにも、思想自体にも異論はない。環境を考えても広めるべき考え方で、折り合いをつけるべき問を多く持っている思想だと思う。ただ広めるならばせめて「啓蒙」というスタンスはやめるべきではあるまいか。そのまま受け入れろとは言わないが、インド宗教の不殺生思想に学べることは多いんじゃないか、と思う。

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