シベリア鉄道では考えることしかなかったのでいつの間にか手書きで怪文書を出力していました。以下文字起こしですがこれは黒歴史以外のなんだろうか…。
こういう作品を(『蓮李乃朶』)読むと、ヘテロ男性である自分がF/F同性愛を描いたフィクションを楽しむということ、そういうことを楽しむ自分のある種解離したセクシュアリティについて考えざるを得なくなる。
斎藤環が論じた/論じようとしたオタク共同体のセクシュアリティの論旨は虚構のリアリティを導入する拠り所としてセクシュアリティがある、としているけれど、虚構化されたセクシュアリティを『いじくり回した』結果、同性愛のみを読み込むというのはどういう行為なのか。セクシュアリティを通して虚構の現実性の拠り所を作るなら、その際に自身は必要がない、ということだろうか。
実際に今「百合ブーム」が起きているのは、斎藤が論のベースにした1999年頃までのオタク文化の風景において顕著であった「エロゲ的」なセクシュアリティの起動がその頃あたりにされ尽くし、その中で新たな形が生まれた結果ナノではないか。加えてデバイス的な「窓」がPCとTV画面から徐々にスマートフォンに移行したこともその変化を促進したのではないだろうか。欲望が不変であるためにはその対象は常に変わる必要がある(pp. 292-293)のならば、その変化が少しではあるが20余年で変化した結果ではないか。
2010年代を私が定義するならば、2つの支配的な方向性があると思っている。一方は「けいおん!」「涼宮ハルヒの憂鬱」でブランドを確立し、2019年の事件で半ば殉教者的にその名前と作品をオタクコミュニティの記憶に刻みつけた京都アニメーションの路線。もう一つは「化物語」の萌えの境地のキャラクターと異様な映像表現、その異様さと驚きで社会的なブームを作った「魔法少女まどか☆マギカ」を送り出したシャフトの方向性。この2つが少なくともアニメーションにおいては時代を定義したポジションにいると思う。
京アニはそれ以前にADVの大手であるKey作品のアニメ版を制作し、そのクオリティを高く評価されていた。Keyの作品は「泣きゲー」というジャンルの典型とされ、感動的なシナリオとキャラクターを売りにした「エロゲ的実用性」とは真逆を行く方向で成功した会社だ。「AIR」「CLANNAD」「Kanon」という作品をアニメーションに落とし込む方法を確立したのが00年代前半の京アニである。その手法の核になっているのが美しい背景表現、そして「キャラクターの日常にリアリティを出すために細かい動作を自然に描くためにリソースを割く」映像表現だ。また「萌え絵」と呼ばれる絵のスタイルをどうやって動かすのか、というノウハウ蓄積をここで行っている。Key作品のキャラクターデザインは独特で、髪の線が多めのデザインであり、これを動画に落とし込み元の絵に近い形でアニメにするのは容易ではない。さらに言えば京都アニメーションが初めてに元請けとして制作した作品は「ハードなミリタリーロボットSFラノベ」である「フルメタル・パニック」の「学園パートのみをアニメ化する」スピンオフ的作品だった。
泣きゲーにしろ他のADV作品にしろ、シナリオに厚みを持たせるためにはどこかで主人公にキャラクター性を持たせねばならない。作品のフォーマットとして主人公はすなわちプレイヤーが同一化し、作品に没入するための依代だ。そのためにあまりに個性的にすると、没入が容易でなくなる可能性がある。またルート選択、ヒロインと主人公が性的関係を持つか否かが倫理的選択となっている作品ではヒロインの行く末が主人公の手によって決定される。心の意味でキャラクターを自律的な存在とするならば、その同一の問題は少女漫画における主人公、乙女ゲームの主人公といったところにも存在する。泣きゲーは特にシナリオを重視してそれが評価された作品群だ。言い換えれば主人公はこの時点ですでにプレイヤーから徐々に遠ざかっていたのではないか。
「自律的な欲望の対象を具現化すること」を虚構空間において行うための手段の核は彼の論旨をベースにするのならセクシュアリティだろうけれど、真にキャラクターの自律を求めたとき、最後に残る枷は「エロゲ主人公」という鑑賞者自身なのではないか。その枷を排除したとき、現れるのは「ラブライブ」「バンドリ」といった男性性が排除された関係性記述的な作品と、自身を作品世界から排除しつつも、その性的表象のみで自分のセクシュアリティを起動する鑑賞者ではないだろうか。そこで「所有のための虚構化」を行うならば、それは自分なりの関係性の解釈結果、実験室的なF/F同性愛の関係性記述ではないか。
その路線が結実する一つの転機が「けいおん!」だった。そういった手法「日常系4コマ」とカテゴライズされる作品が見事にマッチし、「けいおん」は大ヒット作品となった。特に「けいおん」は「女の子の日常の動作を自然に描く」というコンセプトのもと、山田尚子を監督として初めて起用し、端々の動作への気配りがそれ以前には見られないレベルの細かさで描かれた。以後山田尚子作品はこの路線を突き進んでいく。京アニの手法は、アクションも戦いもロボットもない作品で、日常のちょっとした仕草にこだわり、リソースを割いてその解像度を高め、キャラクターが自律した存在となるための厚みをもたせた。後発作品での「部活」「音楽」「日常の演技の重視」などの核となる要素が受け継がれ、英語圏で「Cute girls doing cute things」と呼ばれる女性キャラクターだけのホモソーシャルな作品空間が急増した。
このような作品の大ヒットによって男性オタクは「男性性を排除したアニメ作品」、言い換えればヘテロセクシュアル規範が全面に押し出されたエロゲ的な作品以外のものでも熱狂できる方法を知ったのではないか。もちろんそれ以前にも「F/F同性愛」を描く作品は存在した。セーラームーン、ウテナ、マリみて、カードキャプターさくらなど上げればきりがない。もっと歴史的な広がりを含めるならその源流は吉屋信子を含めた戦前の少女文化にその源泉を見ることができる。しかし近年の百合を形作っている作品のほとんどが「少女漫画からの派生」であることは無視できない。もっと言えば「百合」というジャンル定義そのものが「薔薇族」に対応するものとして発生した経緯もある。
いずれにしても「けいおん!」以後、アニメ・マンガで日常系と呼ばれるジャンルの爆発が発生した。最も象徴的なのは「ゆるゆり」のヒットだろう。あの作品そのものは百合作品のパロディ的な寄せ集めであるが、二次創作の基礎となる「原作」を提供したという意味で他作品と合わせて重要だ。それら作品の中で発生する(もしくは暗示的に発生する)F/F同性愛の関係性を読み取る消費のモードが確立され始めたのが2010年代ではあるまいか。
そういう意味ではBLが先行してたどった流れも当然のものとして受け止められるだろう。そもそもBLに繋がる流れとしては、少女漫画というメディアでの新たな試みとしての「耽美系」「やおい」という方向性が源流として存在するが、これらは異性愛規範に縛られ限界があったジャンルの壁を逸脱した新しいジャンルの開拓の姿であった。それらを目にした読者が次に「部活的」な男性ホモソーシャルを描いたキャプテン翼や聖闘士星矢に目を向けた流れは、今日のBLの風景につながるものである。特にこういった「男性ホモソーシャル」の姿はオタク文化外においても普通に可視化され存在しているために、それらを取り上げた作品も多く対象とするのが容易である事情は見過ごせないだろう。この容易さはF/F同性愛が比較して「不可視」になっている、もしくは「異性愛規範をベースとしたエミュレーション」としてしか可視化されてこなかった経緯と対比されるものである。この違いがBLと百合の人気ののひとつではなかろうか。
2010年代においてアイドル作品が人気を博していることは例外ではない。むしろ自然だ。それは「仕事」というシチュエーションを導入することでいかなるカップリングにも接点と関係性を作り出し、それを記述することができるからだ。部活的(閉鎖的、無時間的なホモソーシャル)であればなお容易になる。その意味でラブライブの発明は画期的に思える。さらに言えば自身を排除した語りは斎藤の指摘する「斜に構えた熱狂」、つまり1990年代の発現型であった「〇〇萌え」の発展型として捉えることができる。作品内に存在しなければ自分は「空気・壁・仕事上のパートナー・ファン」などとしての立場という距離のとり方ができる。
自律的な虚構存在が「鑑賞者」という枷から逃れたとき、なおそのリアリティを保つためにはどうすべきなのか。リアリティのために排除した「主人公」との異性愛はもはや使えない。それはエロゲ全盛期の鑑賞、そしてそこに至るまでの「異性愛」をベースにしたメディアの歴史があるからだ。ならばそれは作品内のキャラクターたちのIntimateな関係性を性的なものとして解釈する方法か、二次創作的に無理やり異性愛主義的な男性を再投入する方法しかない。
いずれにしても「F/F同性愛をヘテロ男性が消費すること」の倫理性は常に付きまとう。ここでよく「Pornhubの上位にはレズポルノがある」「男性向けに作られるF/F同性愛の表象」などが想起されて暗い気持ちになるが、それは現実の一部分でしかない。自分もそういう需要を持った消費者でしかないのかもしれない。他方でそれは「性という話題を取り扱うにあたって、その暴力性・加害性を完全に排除することができないのではないか。完全に理性的で倫理的な性の話題は不可能ではないか」と問うべきではないかと思う。無論その暴力性は現実の他者に害を及ぼしてはならないし、そのための努力は必要である。しかしその対象が虚構世界、想像の域を出な異のであれば、害を及ぼす領域については限定的ではないか、と思う。
それでもヘテロ男性が百合を読むとき、そこには「キャラクターのリアリティのため作品内の自分を排除しようとした」動きとは真逆の「自身の性欲のためにF/F同性愛を強要する男性」がいるのである。レズポルノと同じ構図である。
すべきはその暴力性と構造に自覚的であること、そしてそう言った消費のモードを現実世界の他者に適用しないことではないか。特に性的マイノリティ当事者にとって好奇の目を向けられることほど嫌なこともあるまい。ましてそういった話題はプライベートなものであって、他人が軽々に掘り下げて良いもんでもない。さらに言うならば百合という作品群はその書き手、読み手の少なくない数が当事者であり、彼女らのために作られ、読まれている側面が存在することも覚えておきたい。これは比較的読者層と当事者がオーバーラップしないBLとは異なる事情である。自分のような男性読者が楽しむことが妨げられる必要はないし、その道理もないと自分は考える。がそういう事情くらいは頭の片隅においておきたい。
どちらかが優位にあるという姿勢もそれはそれで間違いであると思う。なぜならオタク文化は男女の境界を越境し、新たなジャンル、新たな楽しみ方、新たな作品を作ってきたからだ。その概念すらパロディ化し並列化して、境界を飛び越えられるほどのモノにしてきた歴史がある。そこに他方へのプレッシャーや、マウント取り合戦、読者層の線引き、また読者の間での過剰な自主規制もそぐわないだろう。
百合を楽しむ一読者として、なぜ自分がこんな事になっているか、という問には常に向き合い続けているが、答えが出なさそうである。それでも常に考え続け、その結果が通過点としてこうして出力できた。参考にならないかもしれないし、そもそも日の目を見る文章ではないかもしれないが、それでも百合には真摯でありたい。