新海誠の『天気の子』のファーストインプレッションを9月に書いたまま放置していたのを半年経った今、フィンランドでの先行上映を見たあとに思い出したので上げておくことにする。一部足りていない部分、先行上映を機に思ったことはこのあとまとめることにする。
半ば衝動的に帰国した理由の1つであった新海誠最新作『天気の子』。帰国して真っ先に見た感想を記録しておこうかなと思う。
『君の名は。』で文字通り世界を魅了し、一躍有名アニメーション監督となった彼の最新作がどうなるか、正直見る前は若干懸念があった。予告編は正直『雲の向こう』と『星を追う子ども』の悪魔合体みたいな雰囲気であったし、RADWIMPSの起用について意見を未だ保留していたところがあったので身構えていたわけだ。
実際に本編を見てみれば、「2019年の今、君の名は。をやった新海誠がやる」という作品としては文句がない」という評価に落ち着いたような気がする。ただ同時にそれは今までの作品のある種の「時代から独立した問題」を取り扱ってきた印象のある過去作品とは異なり、20年後にこの作品の評価を考えたら大きく違う評価になってしまうのではないか、という懸念を覚えたが、ともかく今までやってきたこととは違うことをやり始めたな、というのが明確に伝わる作品であり今後が更に楽しみになった。
「東京神話」を殺す
では何が違うのか。この作品が今までの作品と明確に違うのは『天気の子』が「東京神話を殺そうとしている」というところになると思う。彼の代表作として取り上げられる『君の名は。』『秒速5センチメートル』、他にも(個人的には最高傑作だと思っている)『言の葉の庭』のいずれにも東京 の街並みが作品の背景を彩る。東京の理想化、という意味ではZ会のCMとして作られ、『君の名は。』の直接的なプロトタイプとも言える『クロスロード』にも言及する必要があるだろう。彼の背景 美術の美麗さが評価されてきた一端には、その「都市表現」があったと言っても差し支えないと思う (もちろん新海誠作品は都市表現だけではないが)。
『秒速』では3話構成で東京(岩舟)→種子島→東京というふうに主人公が東京に「戻ってくる」話、『君の名は。』はヒロインが精神的・物理的に憧れの東京行きを果たす。『言の葉の庭』では本編の大半が東京のオアシス新宿御苑で育 まれる「匿名的な関係性」が美しい雨の表現とともに描かれる『クロスロード』では田舎と都会の対比が明確にされ、しかしどこにいても(当然宣伝なので)Z会は受講でき、東大合格という結果を 残せるという流れになっているが、ここで東大合格が絶対的な成果である、と描くのもまた東京とい う場所の特別性を強調する。これについては東京の全国トップの大学進学率や教育に対する選択肢の多さなど、現実でも同じ構図があるが、これを新海誠がやっている、というのは無視できない。なぜならここに共通するのは新海誠という人の「東京への憧憬」、フェティシズムのようなものが 感じられるところ、そしていわゆる「田舎」はそれを表現するための対比に置かれるという構造だと思う。その憧憬は間違いなく彼の新宿のビル街の描写の美しさとつながり、「東京とはこんなにも美しいところなのだ」というメッセージを明確にする。
そんな憧れは『君の名は。』の三葉の「こんな町嫌やわ」「来世は、東京のイケメン男子にしてください」という叫び、『秒速』2話のコスモナウトでの「ここではないどこか」と灯里とのつながりを渇望する貴樹など、「田舎」からのセリフにも同様に現れている。この田舎への冷ややかな目と東京の理想化というのはもちろん新海誠自身の経歴がそうさせるのだろうが、最近話題になる細田守が『おおかみこども』で描いたような田舎への眼差しとは対照的なものが感じられる。
もちろん都市表現だけが新海作品ではない。常にコアにあるのは関係性と断絶と距離、そして「ここではないどこか」への思慕と渇望であり、その表現を様々な形で行ってきたのが新海誠という監督である。最近の作品、特に『秒速』のあとにファンタジー路線を取って微妙な評価を受けてしまった『星を追う子ども』以後の作品では東京がメインとして描かれ、主人公にとっての理想である「ここではないどこか」として登場する。『雲の向こう』や『星を追う子ども』では「ここではないどこか」は東京ではなく、アガルタ世界にその役割を譲っている。アガルタは『君の名は。』で「彼岸」として描かれる宮水神社の御神体のあるカルデラ湖描写のベースになっていて、「超自然的な非日常が可能になる場所」として役割を変えて登場する。最初期の『彼女と彼女の猫』『ほしのこえ』はそのいずれにも当てはまらないが、『ほしのこえ』での「取り戻せなくなる過去」は星間戦争で寂れていのいずれにも当てはまらないが、『ほしのこえ』での「取り戻せなくなる過去」は星間戦争で寂れていく都市の姿での思い出であるあたり、芽のようなものはあるのかもしれない。
『天気の子』のPVには、作品のキーとなる代々木の廃ビル屋上の神社がすでに登場して いた。朽ち果て、錆びついたビルの描写なんてものは今までの作品ではあまり見られなかったもの で、かなり驚いた思い出がある。キーとなる場所が青森の廃駅とほぼ廃墟の倉庫である『雲の向こ う』はそういう意味でだいぶこの作品に近い。東京はもちろん美しく描かれているし新宿なんてもっと汚いところであって、この作品もまだ理想化して描かれているという指摘もできる。しかし朽ち果てるビルの描写や繰り返される「東京って怖え~」という穂高のセリフはやはり「東京っていいことばっかじゃないよね」というメッセージを読み取ることができるだろう。そういう意味では『秒速』3話の貴樹の「乾ききった心」、雪の降る東京の風景は通ずるものがあるのかもしれない。ましてその東京の大半を海の下にするラストを描いてしまうというところで今回はいろいろな意味で前とは違うことをしていると感じた。2020年を目前にして新国立競技場やラグビースタジアムまで写しておきながらまるごとすべて水没させるロックな表現は結構気に入っている。
今まで見えなかった「東京」と2010年代のZeitgeist
違うと思ったのは主人公たちの社会での位置付けもある。今回の主人公が決定的に今までの主人公と違うのは彼らが東京の最下層にいる、ということだ。穂高は新宿にたどり着いた家出少年という弱者、陽菜と凪はいずれも孤児となって社会的弱者の立場にそれぞれいる、ということは東京の見え方を大きく変える。彼らはいずれも「都市」というシステムに飲み込まれ振り回される立場に(by choiceかinevitableかという違いはあれど)いて、そこから見える景色は今までの主人公たちの「アッパーミドル以上」の視点とは違うものが見える。穂高にしても陽菜にしても「持たざるもの」であり、特に穂高はほぼネットカフェ難民→ほぼホームレス→怪しいブラック企業で搾取される、という痛いほどにリアルな「都市で持たざるものがどうなるのか」という路線をたどる。そもそも東京と
いう土地は教育、労働を通して地方で育成された人材を吸い上げ、ブラックホールのように肥大化してきた土地である。それは高度経済成長期の「金の卵」と呼ばれた地方出身の若者をまとめて東京で就職させるということでもあったし、それが衰退したあとも教育、労働の選択肢の理由から 地方から首都圏にでる、というのは特に大学進学においてよく発生する。人的資源以外にも都市が必要とする物質的リソースを地方に負担させるという構造や地方のインフラ発展のスピードの差は未だ改善されていない問題として残る。福島原子力発電所事故でその構造が強い批判を浴び、都市のために地方に負担を強いるという構造が大きく問題になったのは記憶に新しい。そうした「都市」という怪物の醜い部分を新海誠が取り上げた、というのは大きな転換点ではなかろうか。ラストに至っては都市は人間がつく出した「歪み」であるとまで言っている。
冒頭で「時代から独立した問題」を扱っていないのではないかということを言ったが、つまりはここにつながる。それ自体が悪いことではないのだが『天気の子』は根底にある問題意識が「タイムリー」であり、2010年代後半というこのときだからこそ刺さるようになっているのではないか。この作品には2010年代の現実が色濃く反映されているのである。特に若年層の貧困は大きな位置を占めている。行き場のなくなった穂高、陽菜と凪がたどり着くラブホテルでのシーンで、割高にも程にある焼きそばやカップ麺で「ごちそう」を楽しむ3人、兵器転用すら可能な「天候を変える能力」を使うのに「5000円では高いだろうか」と懸念する二人、穂高が陽菜の家を訪問するときのお土産などのシーンを見ると普遍的に今どきの問題意識が強く浮かび上がる。新宿のシーンにバニラの求人広告トラックを走らせていたり、バイトルを補高に使わせている辺り自覚的にそういうことをしているのは間違いない。友人が指摘していたがからあげクンやカップ麺をそうして使っているのも含め、協力スポンサーを貧困の象徴として使うというのはなんとも…。
これをアニメでやる、ということを文脈に置くともう一つ浮かび上がるのは彼らがはじめから「アンフェアなゲームに参加させられている」ということである。10年代にヒットしたアニメ作品を上げるとするならば、いくつかあるだろうが『魔法少女まどか☆マギカ』と『Steins;Gate』は挙げざるを得ないだろう。個人的には『輪るピングドラム』もそこに組み入れたいが、共通するのは世界のシステムがキャラクターにアンフェアであり、戦うべき悪は世界の構造そのものであるというところだ。彼らが生まれ落ちる前からアンフェアであることが決まっていて、それによって「奪われるもの」を取り返し結果を変える、というのがいずれの作品でも核となって描かれている。
もう一つ「今どき」な要素といえば就職活動の困難だろうか。『君の名は。』の最後で瀧が苦労している様子でも表現されていたが、『天気の子』でも須賀の編集プロダクションがあくまで腰掛けであること、もはややけくその「御社が第一志望です!」というセリフは刺さる同年代が多いのだろうと思う(残念ながら就活に参加しなかった人間なのでその感覚はあくまで二次的にしか共有していないのだが)。就職氷河期と言われるような時代は自分よりも少し前の世代であるが、その時の就職活動の地獄は想像し得ないほどにアンフェアなゲームだったのだろうと思うし、「売り手市場」と言われてはいるが問題は未だに終わっていないように思う。しかもこの「就職難」という問題は先進国の若年層においては普遍的な問題なのである。これが取り上げられているのは2010年代の問題意識としては当然とも言える。
労働で言えばもう一つ驚いたのは「ブラック企業」が問題として取り扱われることも印象に残った。東京で生き抜くためのオプションがなくなり、須賀の経営する編集プロダクションを頼みの綱として訪れる穂高はそこでの「好条件」に釣られ働き始めるが、この怪しいおじさんの編プロでの労働条件は月給3000円という「フィクションであってくれて良かった」レベルであることが判明する。穂高にとっては(家出少年であってまっとうなところではそもそも働けないわけだが)東京で頼れる人脈も、他の選択肢もない状況で唯一得られた居場所なのだが、その事情も合わせると賃金のフィクショナルな低さを除けば夏美の言うようにまごうことなきブラック環境の典型的な構造であると言えよう。陽菜も同様で、拠り所もなく法的には働けない中でマクドナルドのバイトもクビになり、働けると
ころはスカウトマン木村の水商売しか残されていない、という状況は穂高と共通する。
2019年に「セカイ系」ですか?
見る前に見たTwitterでの感想で印象に残っていたのは「セカイ系である」というやつと「00年代エロゲーのトゥルーエンド」だの「夏美ルートもあるに違いない」あたりだったので一体どういうことなのか気になっていた。見て見れば確かに「エロゲのアニメ化」みたいな話はわからんでもない。しかしあれが「セカイ系」であるかは悩み続けている。東浩紀の定義を使えば「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品」となるが、これに当てはまるかどうか見てからずっと考えていた。社会の欠如がなくミクロとマクロの2つの視点が核になるという話がセカイ系ジャンルのメインなわけであるが、代表作として『ほしのこえ』が挙げられることも多く考えるに値する気がする。
しかしどう考えてもこの作品は「セカイ系」っぽいけどセカイ系ではないのではという結論に達する。なぜかというと『雲の向こう』にあったような「この世の危機が主人公とヒロインの関係性に直結している」という構造がこの作品にはないように思える。特に「世界の危機」を当てはめるには難しいように思う。また「社会の欠如と誇大妄想的な問題」がセカイ系を語る上で言われる要素である
が、こちらもどうもしっくりこない。この作品で主人公に降りかかる問題というのは「陽菜が世界のために犠牲となり、奪われる」というところと「陽菜との居場所が社会のルールによって奪われ、逃げてきた社会へ合流せざるを得なくなる」という2つがあるように思う。前者は一見すると『君の名は。』的な制御不可能な自然の力に抗う問題に見える。積乱雲の上にある彼岸の草原や神秘的な「水の魚」は視覚的には新海が憧れを持って描いてきた「ここではないどこか」の体現としてのアガルタ世界である。しかし、今回『君の名は。』の御神体の役割を果たす廃ビル上の神社は、鳥居が境界線というだけであり、陽菜にとっては「行きあってしまった」タイプのオカルトだ。その原理も血筋とかではなく、単に「選ばれてしまった」だけ、仕組みに至っては取材先の僧侶の「空と地上をつなぐ巫女は天気を変えることができるが、代償として神隠しに遭う」というその神社へのつながりも縁故もない説明のみが提供される。言ってしまえば『雲の向こう』で使われた「ユニオンの並行宇宙観測プロジェクトに巻き込まれた」佐由理が巻き込まれた理由のほうがまだ「祖母が開発者だから」というポストエヴァっぽい設定のほうがまだ筋が通っている。要はトンデモSFの「物語のために存在する適当科学ロジック」と大差がないのである。こうしてみるとどうも2つの問題は同質のもので、「理不尽なシステム」としてオカルト的天気の巫女のルールたる自然と、孤児と家出少年という弱者をそのままとして存在させず二人を引き裂く社会が同質のものとして描かれているように思える。
普通ストーリー論では自然と社会は可分で、その対立の種類でストーリー分析をやるわけであるが、この作品では自然がほぼ社会に従属したもの、メタファーとして扱われているのはいくつか理由があるだろう。一つは先述したように今回は過去作品で都市の対比として描かれてきた田舎が登場しないことだ。普通に考えて「東京神話」を殺すならば、細田守の「『おおかみこども』的な美しい田舎を対比して描くのが妥当なラインのように思える。しかし新海は天気の子でそれをせず、東京という空間のみに絞ってその醜さを描こうとしている。よほど田舎を美化して書きたくないのだろうなという邪推すらしてしまうが、ともかくとして今回は東京の中から東京を描く話になっている。穂高も伊豆諸島という東京の辺境出身であるが東京都民であることに変わりはない(私自身も23区外で育った人間で都民ながら辺境意識がある)。陽菜も同様だ。都市で発生する作品は必然的に自然を描くのが難しくなる。それは都市という空間がすでに「自然を征服して規範と社会のレイヤーのみで覆った」空間だからである。特に東京の中心は自然が完全に征服されているし、空間がルールで構築されているので自然のカオスに触れるための距離が極端に遠い。ともかく今回の『天気の子』は理不尽なシステム対人間の構造を持っていて、そのシステムとして自然と社会が同列に扱われている。その理不尽なシステムは陽菜を穂高から奪い、それを取り戻すために選択をするのがこの話の中核である。友人が指摘したが村上春樹がイスラエルで行った「壁と卵」のスピーチはまさにこの構造と一致する。
セカイ系の対立には基本的に自然的な「抗えない力」としての世界の終わりや宇宙的な問題を解決するための唯一の方法がヒロインの能力なり存在にかかっている構造になっており、彼女に犠牲を強いるのかどうかという問いが主人公に課せられる。そういう意味では確かに「セカイ系的」だろう。しかし同時に指摘される「社会の描写の欠如」はこの作品では問題の一部として扱われている点で当てはまらないのではないか、というのが個人的な結論になる。またそもそも「セカイと彼女を天秤にかける」原因が主人公たちの側にあるというのも若干典型から外れるのかもしれない。
過去の欠如ー「持たざる」僕たちが持っているもの
『天気の子』で一つ気になったのはメインの穂高、陽菜と凪の過去が描かれないということがある。これは別にキャラクター描写が薄いとかそういう話ではなく、意図的にそういう存在として描かれている。上で少し触れたが今回の超自然的な巫女の能力を手にした陽菜はまったくもって偶然にこの怪異に「行き遭っている」。『雲の向こう』の佐由理のように「エクスン・ツキノエの孫」だった
からとか、『君の名は。』の三葉のように「宮水の女」という歴史ある巫女的血筋を持つわけでも、『ほしのこえ』のミカコのように「トレーサー適正があった」わけでもない。唯一過去の描写がされるのは入院中の母親の病床であの神社が「ヤコブの梯子」の下にあるのを見つけ、彼岸への「ポータル」を発見するというところだけである。また孤児という立場は子供が持つほぼ唯一の繋がりである血縁を喪失し、過去を提供する親がいないというのは徹底的な過去の喪失と言えるだろう。穂高に至っては島を脱出した理由がほとんど明かされない。島での描写は同じくヤコブのはしごを追いきれなかったというところだけで、なぜ過去とつながりを捨てて本土に出たのかは明かされずに終わる。ネットカフェ難民時代に村上春樹訳の『ライ麦畑でつかまえて』が登場するので影響を受けたのだろう、というぐらいしかわからない。
何が言いたいのかというと描写が足りない、という話ではなくて彼らが「過去すら持たない」存在だ、ということだ。彼らが都市の最下層で「持たざるもの」の位置にいるというのは先述したが、彼らは過去も喪失しているのである。東京という場所に住む人々は(先祖代々東京にいるという少数派を除けば)、大多数が一度故郷を捨て、つながりと過去を捨てて東京に移住してきている。過去の「金の卵」世代も同様である。むしろ彼らは故郷から積極的に「捨てられている」のでより「持たざるもの」であるが。これによって主人公3人という「持たざるもの」と、須賀や他の大人という「持てるもの」の対比がなされている。
こうして「持たざるもの」がシステムに翻弄される話が展開されるわけであるが、彼らが持っていたものが3つだけあった。「可能性」とマカロフと天候操作の力である。過去を持たない彼らには可能性に賭けて行動ができる自由がある。それは須賀のように縛られる柵からの解放であり、規範をひっくり返す無謀な行動ができる自由である。それは大人から見れば無謀で刹那的だろうが、彼らにとっては当然な行動となる。その自由は警察に追われてもなお陽菜を探す穂高や、児童福祉施設から映画的な変装で抜け出す凪の行動の背景にあるものだろう。この「なりふり構わない」姿勢は夏美、須賀を変え穂高を助けさせる。
穂高が新宿で手に入れたマカロフと、陽菜が行きあう天候操作の力はいずれも「偶然に手に入った」力であるが、いずれも強力なものである。日常では絶対に手に入らない「暴力」と、常識では絶対に起こり得ないことを可能にする「オカルト」、どちらも普通ではない力だ。彼らはこれを武器に理不尽なシステムに立ち向かっていく。先述したようにこの作品の問題は、「3人の疑似家族を奪う社会」と「地上から陽菜を奪う自然」の2つがある。『天気の子』で前者の対立で立ちはだかるのは警察であり、高井・安井の刑事と、児童相談所の職員に同伴して面会する佐々木巡査の3人がその役割を果たしている。また陽菜を奪うシステムの末端としてはスカウトマン木村もその役割を果たしているだろう。警察の暴力装置としての象徴である拳銃を持つことで対等の立場を取れるようになり、凪や夏美、須賀の助けを通してビル屋上への道を切り開く。「彼岸に向かい、彼
岸から連れ戻す」というのはイザナミやオルフェウス、部分的にはギルガメッシュ叙事詩などともつながる神話の共通項の一つであるが、マカロフは言ってしまえばオルフェウスの竪琴であり、イザナミの髪飾りや櫛、ももの種であったと言える。
陽菜の巫女の力は、より物語の根幹に関わるスケールの大きい力である。非常識領域の力によって彼らは「晴れ女サービス」を立ち上げ、3人の疑似家族維持のための力として当初は利用する。結果乱れた世界のバランスを誰に払わせるのか、という問を突きつけられる。一見身から出た錆にも見えるが、一方で彼らはサービスを通して割に合わない報酬で他人のために天気に介入していた。発端こそ彼らであるが、介入そのものは市場の需要に起因している。言ってしまえば
彼らを取り巻くシステムの一部である。兵器転用すら可能な力を市場の求めるまま使い、結果的にはバランスに介入した代償を払って彼岸に連れて行かれることになる。
穂高は彼岸から陽菜を取り戻すわけであるが、その描写は興味深い。マカロフで脅し、道を切り開いた彼は廃ビルの非常階段を駆け上がる。『言の葉の庭』の対比のようにも見えるカットをはさみ、最後の折返しで踊り場を踏み抜きながらも穂高は屋上にたどり着く。穂高は最後に踏みぬいた階段で現世とのつながりをほんとうの意味で絶ち、陽菜を連れ戻す。東京に代償を払わせることをいとわない決断が、落ちてゆく階段にリンクしているのだろう。「振り返る過去」のない彼らは鉄床雲とも呼ばれる積乱雲の上にあるアガルタ的な草原のロングショットは『ラピュタ』オマージュだろう。
その代償を東京というシステムそのものに払わせる決断をする。結果的に雨が3年間降り続き、東京都心部は水没都市となる。彼らが持っていた3つはシステムに一矢報いるための「非日常」の力であり、彼らに理不尽を強いてきた東京というシステムへの反撃を行うことを可能にしたのである。
システムに一矢報いるー2019年にこの結末をやる意味
システムと対峙した彼らがどうなったのか。穂高は陽菜を取り戻すことに成功するが、結局大人の世界のルールで逮捕され保護観察処分となり、抜け出した島に戻ることになる。その間3年間降り続いた雨は東京を水没都市に変え、「世界の形」は変わったのである。無論彼らが「変えてしまった」ことは誰にも信じられず須賀にも「そんな馬鹿な話はあるわけない」と一蹴される。結局の所彼らが起こした反撃は東京というシステムに爪痕をつけたが、都市そのものは存在し続けており須賀の会社や水上バスから垣間見える都市の日常は大きく変わってはいない。それでも確かに変わったのだ、変えたのだという認識は穂高に3年間社会で耐える中での希望を与えた。終盤繰り返される「大丈夫」という言葉は不完全な勝利ではあったものの、耐えるための希望となり、未来への可能性がまだあるという可能性がある、ということを表しているのだろう。「大丈夫」というフレーズは『君の名は。』の奥寺先輩のセリフとして、また『秒速』1話の桜花抄ラストでの明里のセリフとしても登場するが、いずれも未来の可能性は十分にあるという使われ方をしているように思う。まだ未来はどうにかなる、という希望は『天気の子』において穂高を3年間耐えさせ、「システムに拒否された」疑似家族を再びやり直すために再度上京させる。彼らは確かに理不尽なシステムに一矢報いた上、また新たに彼らの世界をやり直すためにスタートを切ったのである。
公開直後、新海誠は複数のインタビューでこの作品が「賛否両論になるだろう」と言っている。ではどこが賛否両論なのだろうか。「少数のエゴのために東京を犠牲にすること」だろうか。それとも「ルールを逸脱して手続き上正しくないことをエゴのために突き通すこと」だろうか。はたまた「若者の貧困などという問題を取り上げた」ことだろうか。いずれもまあ賛否両論かもしれない。また一部では「女性がobjectifyされている」という批判も出ている。これもcontroversialだろう。また海面上昇と気候変動という非常にホットで継続している問題を扱っていることも議論を呼ぶかもしれない。ヨーロッパの若者の間の緑の党への支持やGreta Thunbergが発端となって全世界に広がったFriday4Futureといった気候変動対策を求める声は強くなる一方であるが、同時に様々な方向から議論を呼んでいる話題でもある。一見すればこの作品は「多少強引で手続き上問題がある方法でも使用しないと問題は解決できない」というメッセージとして読み取ることはできてしまう。
しかしより広く取ればこれは「弱者・若者から発せられる「責任を取れ・ツケを払え」というFriday4Futureのメッセージが一番近いのではないか。今の若年層が直面する問題はそもそもが彼らが存在する以前に発生し、理不尽なシステムが構築されたあとに生まれた世代が無理やりゲームに参加させられている、という認識は2010年代のZeitgeistとして確かに存在するだろう。その精神は『まどか☆マギカ』では理不尽なキュウべぇのシステムに巻き込まれまどかは最終的に世界
のための生贄となる。しかし『叛逆の物語』ではそれを良しとしないほむらのエゴによって博愛で犠牲となったまどかを部分的に世界に連れ戻した。結果搾取の主体であったキュウべぇはほむらに使役され、ツケを払わせられることになる。Friday4Future運動は気候変動対策を怠ってきた「大人たち」にツケを払えと声を上げた若者である、というメッセージを発信している。
『天気の子』では「ツケを払わせる」対象が東京というシステムである。これを単に「大人たちの作り出した状況」と読み取っても十分に成り立つだろう。しかし『君の名は。』の次の作品であること、「地方・自然の欠如」を踏まえるともう一つ払うべきツケの関係が見えてくる。『君の名は。』は三葉との入れ替わりが唐突に終わってしまうタイミング以後に使用されるイメージがほぼ全て東日本大震災を意識したものとなっていることは誰にでも読み取れることだろう。そこでシンクロするのは東京という都市のために必要なリソースのために犠牲を被る地方の姿であり、インフラの不足であり、復興の遅さである。しかし『君の名は。』ではその犠牲の上に成り立っている東京が美しく、あこがれの対象として描かれ、瀧と三葉が書き換えた後は宮水家含め糸守町の住人はInternally Displaced People(IDP)として東京に移住する結末を迎える。言ってしまえば都市のエゴで犠牲になった地方の人間は都市に組み込まれ、都市は美しくあり続ける結末だったわけである。「都市フェチズム」的な作品を作ってきた新海としては当然だったのだろうが、この部分に批判もあったようである。
その反省として考えるとかなりドラスティックな「都市観」の変化は当然だったのかもしれない。都市が弱者を飲み込む怪物であり、そもそも「歪みであった」とまでの表現を使っているのは「自然を甘く見てはいけない」というエコロジー主義的な主張も入っているのだろう。そういう意味で2019年の現実を踏まえた非常にタイムリーな作品であるのは間違いない。一方でそれは果たして20年後共有される問題意識なのだろうか、という疑問は残る。『ほしのこえ』以後彼の作品は概ねが時代に左右されない価値と問題を取り扱ってきた印象がある。だからこそ自分は2013年というかなり遅い時点からでもすべての作品に魅了されたわけだが、今回の『天気の子』が果たしてそのように時代性から独立しているだろうか、という懸念はファンとして確かにある。しかしそれは同時に緊急性の高い問題を扱い、観客に頭を使わせる問題提起を狙った作品としては成功しているのだろう。
同時にこれは今の若い世代(おそらく私なんかよりも下の世代)への激励でもある。大人の作ったルールのゲームに乗る必要などない、ゲームに参加せず自分たちで新しいルールを作れ、というメッセージは彼らが「大丈夫」になるための武器になるだろう。25歳の自分にしても同じように与えられたゲームに参加せず、ゲームそのものを別の場所で行う選択をした身であるが、ゲームを移るめのツールは英語力と海外経験というかなり普通じゃないものを使っている自覚がある。マカロフや巫女の力などシステムに対抗するための「非日常の力」は偶然にしか手に入らないというメッセージだとしたら、残酷なメッセージではないかな、とも思ってしまうのは穿ち過ぎだろうか。