さんま雲さんところで書いた『スオミリマガジン2018』に寄稿したヘルシンキの世界遺産であるスオメンリンナ島のあまり触れられないロシア統治時代の歴史と島を中心にヘルシンキを取り囲むように整備された要塞線の全容について書いた記事であります。掲載許可が出たので上げておく。
本当は「ヘルシンキの有名観光地全部ブッチして歴史オタクに特化した観光ガイド書こうぜ企画」という思いつきの第一弾の予定であった。修士の授業でやった「都市のアーカイビング」課題が元になっております。本誌で使用したイラストの代わりに写真とWikimedia Commonsからの地図を使っている。
「日露戦争の結果がヘルシンキの風景と直接つながっている」「ヘルシンキの要塞はスオメンリンナだけではない」という話を聞いたことはあるでしょうか。ここではある戦争遺構を主眼に、スオメンリンナを歴史的文脈に置きながら、関連したバタフライエフェクト的な影響と透明になった歴史、そして街と共存する廃墟という風景について語ってみようと思います。
世界遺産スオメンリンナの要塞
スオメンリンナ要塞はそもそもスウェーデン帝国によってSveaborgとして1748年から建築が開始され、2回のロシアスウェーデン戦争を通して戦闘を経験した要塞です。戦争の結果スウェーデンは1808年にフィンランドをロシア帝国に割譲し、フィンランドはロシア帝政下の大公国として位置づけられます。当然スオメンリンナもロシア海軍の所管となるのですが、当初ロシア帝国はこの要塞島をあまり重要視していませんでした。クリミア戦争勃発後、1855年に敵対する英仏艦隊によって激しい砲撃を受けましたが、依然戦略的にスオメンリンナは二次的な扱いにとどまっていました。これはラトビアのリエパーヤのバルト海艦隊基地とクロンシュタット要塞によってペテルブルクまでの湾口は防御されていたからです。
この状況が変わるのが1905年の日露戦争です。日本史ではおなじみの「日本海海戦」によって無敵と言われたバルチック艦隊は撃破され、大日本帝国の近代化を日清戦争とともに世界に知らしめた日本史のターニングポイントであり、日本の帝国主義が勢いを増すきっかけとなった戦争です。日本の勝利は裏を返せばロシア海軍が太平洋艦隊とバルト海艦隊に同時に大きな被害を受けた敗北ということになります。この頃になるとバルト海におけるドイツ海軍の脅威が大きくなっており、そのタイミングでロシア帝国は首都サンクトペテルブルクの守りを担い、バルト海を勢力下に置くために必要な艦隊に甚大な被害を受けたのです。
日本海の高波がヘルシンキに届く時―Krepost Sveaborg
ロシア帝国はペテルブルクの防御を一刻も早く固めるため、海軍の拠点を守りが不十分になったリエパーヤからタリンに移し、フィンランド湾の両岸に要塞を構築して敵の侵入を阻止する計画を進めました。「ピョートル大帝の要塞」と呼ばれたこの要塞システムの中で海軍の拠点となるのがタリンとヘルシンキだったのです。2つの拠点の陸側の防御を固め、ドイツ軍が上陸してきた際の対処できるように地上に要塞を構築する計画も盛り込まれ、整備が1912年ごろから始まりました。この内ヘルシンキのものはスオメンリンナを中心とした2重の半円状に構築され、地上部分と海上部分を合わせてKrepost Sveaborg(露:スヴェアボリ要塞)と呼ばれました。

4の北端Upinniemi半島には1944年以後にソ連への租借地として使用されるPorkkalaがある。
https://fi.wikipedia.org/wiki/Pietari_Suuren_merilinnoitus#/media/Tiedosto:GulfofFinlanddefence1917.jpg

https://en.wikipedia.org/wiki/Krepost_Sveaborg#/media/File:Krepost_Sveaborg_general_plan.png
計画に沿ってヘルシンキ中心部から6kmほどの距離に半円を描いた第一要塞線の建設が1914年ごろから急ピッチで進められました。同時進行で既存の海上要塞の装備も近代化され、現在島内で見ることのできる大砲のほとんどはこの時期ロシアから来たものです。その後1915年には現在の環状高速Keha IIに沿うような形で第二要塞線が建設されました。砲兵陣地や塹壕などがコンクリートを使って建設され、大きな掩体は岩盤をくり抜いて作られました。この建設にはフィンランド人だけでなくロシア帝国各地からの労働者が集められ、その中にはタタール系やタジキスタン系などの他に極東地域からやってきた中国系労働者も含まれていました。その史実からか第二要塞線東端がある東ヘルシンキのKontulaにはKiinalaispuisto、ズバリ中国人公園なる公園があります。(公園の周りもPatterikuja(砲兵隊路地)Linnoittajantie(要塞建築者通り)となっています)
急ピッチで進められた要塞線ですが、第一次世界大戦では戦闘を経験することなく、ロシア革命によってロシア帝国は倒れ、フィンランドは独立の道を進みます。1917年に始まったフィンランド内戦の終盤においてヘルシンキを勢力下に置いていた赤衛軍と、白衛軍支援のため西部から上陸したドイツ軍との戦闘において要塞線の西端の一部が使われた記録が残っています。ただし要塞線の装備のほとんどは革命に際したロシア軍撤退の際に多くが破壊されており、数で圧倒するドイツ軍はそのままヘルシンキを占領します。
沈黙する廃墟
現在このKrepost Sveaborgの海上部分の内、スオメンリンナを除いた殆どの要塞島が未だ軍の管轄下にあり一般人の立ち入りが制限されています。地上部分についても戦後の宅地開発で多くが姿を消しており、当時の面影を知ることは容易ではありません。東ヘルシンキの郊外、北部のKeskuspuistoとエスポー市の一部には比較的保存状態の良い掩体や塹壕が公園の一部として残っています。

スオメンリンナを知る際に文脈としてスウェーデン時代と同じくらい重要なKrepost Sveaborgですが、その詳細について知るのは容易ではありません。スオメンリンナの歴史を知らせるためのスオメンリンナ博物館の展示を見ても、ロシア帝政下でのスオメンリンナについてはほとんど言及されていないのです。建設から現在までの300年以上の歴史の中で、ロシア時代の60年間に関してはサラッと流された歴史が語られているわけです。これら掩体の保存は公園としての整備が主眼で、それ自体の歴史的価値は透明で見えず、少ない文献資料を参照してようやく理解できるという位置付けになっています。また遺構そのものも公園の中の草むらに沈みかけていて、屋根らしきものが落ちたり掩体内が石で埋まっている、中に入れば酒盛りの跡と落書きがあるコンクリートの廃墟に出会うことになります。
Krepost Sveaborgの遺構はなぜ「沈黙」していているのでしょうか。そこには「国の歴史を語る」ということとの関係性があります。国の歴史を語るということは、様々な手段を通してある物語を「共有された集団の歴史」として強調して語っていくという要素があります。その結果「集団の物語」にフィットしない別の物語は語ることが困難になる、という状況が発生します。独立したフィンランドという国の歴史を語る上では、「抑圧の主体」であったロシア帝国との決別が物語の核となり、「ロシアによるロシア防衛のための要塞」は物語に組み込むことができず、語ることが難しくなったと考えられます。
スオメンリンナの名称そのものも、この物語に組み込むために独立後スウェーデン語名称音写のViaporiから「スオミの要塞」であるSuomenlinnnaに改めた歴史があります。スオメンリンナ博物館が「スウェーデンが作ったSveaborgであり我々のSuomenlinna」を発信し、ロシア語名称のKrepost Sveaborgの歴史が抜けているのも「ある物語の強調」という意味で当然だったと言えます。今後「フィンランドの歴史」という物語の強調で見えなくなったものに関する展示が増えることがあるかもしれませんが、しばらくの間は要塞の廃墟は沈黙を続けることでしょう。
日露戦争のバタフライエフェクトに思いを馳せながら、美しく整備されたスオメンリンナとは対照的に森の中でひっそりと沈黙する廃墟を探しながらのハイキングをご提案します。以下に2箇所ほど比較的アクセスのしやすいKrepost Sveaborgの遺構を取り上げましたので、もし次にヘルシンキに訪れる際には足を伸ばしてみてはいかがですか。
行き先案1:Keskuspuisto(Pirkkola)でハイキング
公園自体ヘルシンキ住民に人気の散歩とピクニックの行き先で、首都中心部からすぐに森があるということが実感できます。Ilmala駅のすぐ北のKeskuspuistoは市街から一番近い森林公園です。森と湖の国で自然をを楽しみつつ要塞の跡を探すというのも楽しいと思います。園内には塹壕や岩盤をくり抜いた大きな掩体(倉庫として使用・立入禁止)、152mmCanet砲の陣地などが残されています。
地図:https://goo.gl/maps/8N66kj24HhqdDg9U6
行き先案2:AlakivenpuistoとLansimäki(MyllypuroとMellunmäki)でハイキング
東ヘルシンキ各地に残る要塞跡の内、メトロ駅からすぐに二箇所あります。70年代の北欧機能主義の団地が並ぶ郊外にあるMyllypuro駅から1kmほどのAlakivenpuistoには巨大な280mm臼砲陣地が2つ並んで残っており、その間を結ぶコンクリート製連絡壕が草に埋まりかけ、公園の一部になりかけているのを見ることができます。一通り散策したあとは、メトロで終点Mellunmäkiまで行き、Lansimäkiで住宅地と重なり合う要塞跡を見ることもできます。どちらもヘルシンキの郊外の風景と要塞の廃墟が共存した風景を見ることができ、同じ場所に要塞跡、70年代的郊外、移民コミュニティなど様々なレイヤーが重なり合っているのを感じることができます。
地図:https://goo.gl/maps/KUiZevNHxUUsrUkb9
参考文献




